私は、1999年に杉山さんを主人公にしたTVドキュメンタリー番組を制作(テレビ東京系)し、同時に杉山さんの半生伝『おみすてになるのですか』を出版した。その後、杉山さんを題材に演劇台本を書き公演した。杉山さんの活動を中心にドキュメンタリー映画『人間(ひと)の碑〜90歳、いまも歩く』を製作したのが2006年だった。映画にしたのは、一過性でTV局からの様々な制約のあるTV番組よりも、杉山さんたちの存在・活動をじっくり記録し、後世に残す必要を感じたからである。

杉山さんたちが、声を上げた時、傷痍軍人たちからは「民間人が何をいうか」といわれ、被爆者と連帯しようとしても「原爆と普通の爆弾は違う」といわれた。排除されても集まりに出かけて行った。アジアの戦争被害にも目を向け機会があるごとに自らの存在を訴えた。

1994年の「被爆者援護法」の成立の時に、一縷の望みをかけていたが、かなわなかった。しかし、マスコミをはじめ政治家、国民の多くは、被爆者援護法が成立した途端、国内の補償は終わったと思い、アジアの被害者へと関心は移っていった。
戦災傷害者は国の政策からはもちろん、政党の政策からも反戦平和を掲げる労働組合の平和活動からも、国民の意識からも忘れ去られていったのである。

米軍がアフガンやイラクを爆撃し、市民や子どもたちが犠牲になることに怒りをあらわす日本の国民に「60数年前に日本の辺で同じように傷ついた人々のことも少しは考えてほしい」(ある戦傷者)という。

存在を忘れられ、数が年を追うごとに少なくなっていく戦傷者は、「国は私たちが死んでいなくなるのを待っているのだろう」との思いすらもっている。重い傷を負ったことで戦後が始まり、差別と偏見の中での日陰の生活。杉山さんが旗を掲げたことで希望を持ち心は熱くなった。しかし、国の壁は厚く閉塞感にさいなまれ、気力も体力もなえてしまった。
その心のうちを聴こうと『人間の碑』に続いて取材をはじめた。体力や病気、家族とのことで取材を断られたこともあるし、いったん承諾してくれても断ってきた方もいる。体調の許す限り杉山さんも同行してくれた。途中、私が怪我で入院・手術するハプニングもあり、当初の予定を大幅に遅れてようやく映画が完成した。

「戦争体験の風化」「体験の継承」がいわれて久しい。マスコミの番組づくりも民放はタレントを起用しての戦争ドラマが中心になり、時代考証の曖昧ささえも戦争体験者から指摘されている。(だからこそ実の体験者からいま聞いておきたいと私は思っている)。

私は、戦争の事実、戦争体験の継承の仕事は、マスコミ(新聞や雑誌、TVでは主にドキュメンタリー)と教育(学校教育)の仕事だと考えている。一方、政府はマスコミと教育を常に統制下におさめようとする。国民をだまし、誘導し、戦時には動員するためである。

だからマスコミの仕事の一つは、隠されている事実、社会が見落としている事実。流れの速い川の水面だけでなく、川底でゆっくり変化する底流をみつめ開示して行うことだと考えている。

林 雅行

クリエイティブ21
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