1949年、国共内戦に敗れ台湾へ渡った国民党兵士は約60万人。10代で兵士となり共産軍と戦い、異郷の地に逃れ60年以上経過した老兵たちを取材していた私は台湾本島での取材を終え最後の取材に金門島を選んだ。金門島には「栄民の家」はないが、国共内戦の最期の激戦地であり、そこで暮らす老兵を訪ねての取材だった。

台北の松山空港から飛行機で1時間弱で金門の空港に着く。霧のため欠航も多い。中国福建省の廈門から船で30分。10kmしか離れていない。島の面積は150㎢の小さな島である。1949年10月の金門での戦闘は国民党軍の勝利に終わった。銃弾の行き交う戦場にいた老兵の取材を終え、島を巡る。街中から少し離れると高梁畑が広がり、放牧された牛がのんびりと時を過ごしているのどかな農村風景。島の西北にある湖には野鳥が羽根を休めている。夕暮れになると群れをなして飛び立って行く。美しい夕景だ。陽がしずむまでこの場に留まった。対岸には、廈門の夜景が幻想的に浮かび上がる。昔、この海を隔てて中台両軍が対峙し、両軍は軍事作戦を展開していた。この海峡の流れは速い。海岸には鉄柵が作られ、地雷が埋められていた。ここは戦場の島だった。鳥たちは自由に行き来できたのに。しかし、飛び交う砲撃の狭間でどれほどの鳥が犠牲になったのだろう。

山積みの砲弾、それをバーナーで切り取りその向こうで真っ赤に焼けた破片をハンマーでたたき包丁を作っていく男性。呉増棟さん。ジーンズルックで長身。身長192cm、体重62キロ。呉さんの包丁の材料は砲弾。これは中国人民解放軍から金門に撃ち込まれたのである。時代が流れ、両側の関係も軍事緊張をはらみつつも緊張緩和へ変化。金門と廈門間での往来が先導的に自由となった。呉さんは包丁を作り続けた。朝から晩まで、休日もなく鍛冶場に立った。父や兄が早く逝くなり一家、一族の長として働いたのであった。「負の財産」の砲弾を原材料に包丁に生まれ変わらせる。そこにかける呉さんの想い、憎しみを乗り越えて生きる、生きようとした呉さんの胸のうちに想いをはせたい。

いま呉さんの包丁を買い求めるのは、台湾の兵隊でなく中国からの観光客だ。包丁に込められた呉さんのメッセージとは。

林 雅行

クリエイティブ21
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